言葉の芥場

思ってることを、思っているままに。日ごろ、堆積したことばを吐き出す場所。

フェミニズムについて

非常に反省しています。この反省を忘れないように反省文として記録しておきます。

フェミニズム」という言葉を聞くと、男には関係ないとか、男が関わる領域のモノではないというイメージが社会的に根付いている印象があります。さらに言えば、一部の過激なイメージがフェミニズムという言葉と結びついて、なかなかとっつきにくいものになっている気がします。事実、僕自身もフェミニズム関係のクラスは何となく取ってきませんでした。今はそれをすごく反省しています。知らずに遠ざけていた自分はどれだけ間違っていたのか。チママンダ・アディチエというナイジェリア出身の方の本とテッドトークに出会って、フェミニズムとは社会全体が考えていかなければならない物だと考えを改めました。

そもそもフェミニズムとは、すべてのジェンダーの人が政治的、社会的、経済的、そして個人的に平等さを持つべきだというものです。ここで注意しなければいけないのは、女性が長らく軽視されてきた歴史がありそこに問題がある事を踏まえているから「ヒューマニズム」ではなくて「フェミニズム」であるということです。

書いてみるとごく当たり前のような気がするけれど、現状の社会はこれが達成できない「常識」や「習慣」があふれています。チママンダさんの著書の中で、とても印象に残った例があります。「夫婦やパートナー間において料理は女性のやる事である。」アメリカに限ればこうしたイメージは少しずつ無くなってはいる感じはありますが、彼女の出身であるナイジェリアではとても強く残っているそうです。これに関しては日本も同じではないでしょうか。もしも女性が生まれつき料理が上手いDNAを持っていればこの分担は理にかなっているといえるでしょう。ただ、そんなことはありません。もっと言えば、世界的に権威のあるシェフの多くは男性だったりします。女性=家事という考え方は女性の社会進出が進む前に生まれたもので、現代社会において成立するものではないでしょう。

育児に関しても似たようなことが言えます。僕はそもそもイクメンという言葉が嫌いなのですが、それは「イクメン」という言葉の裏には育児は母親の役割で、それを手伝う父親は偉いという固定観念があるからです。もちろん、こんなことに気付いてる人は多くいるし、こう言った意見を聞く事もあります。ただ、例えば日本のテレビとかメディアを見たときに、なんの気になしにこういうフレーズを使う場面や、父親の育児参加ばかりが讃えられる場面が多くあります。最初のうちはそうあっても仕方ないとは思いますが、これが両親の家事と育児への参加が当たり前になるための議論はもっとなされる部分だと思っています。

アメリカの社会が日本より良いとは思わないし、アメリカ社会が完璧とは程遠いですが、少なくともアメリカでは、男性の家事参加を特別視することをやめようという議論は良く行われます。今年のアカデミー賞の短編アニメーション賞を受賞した作品は父親が娘の髪をセットするという内容のものですが、このアニメを作った監督(元NFLプレーヤーでこれが監督デビュー作)は、この映画に描かれているものを普通なものにしたい、とあるインタビューで言っていました。

生きていく上で周りからの影響は多大です。子どもは自分の周りの社会を観察し、真似をしながら大人になります。少しずつでも社会を変えていかないといつまで経っても何も変わりません。単純に国会の女性比率とかを見ても、日本がジェンダー格差問題に関して後進的であることは間違いありません。僕はこれから育つ女の子が、ある一定の社会的な常識や風潮、女性へのステレオタイプを守るために何かを犠牲にするのは納得がいきません。僕の周りの最も聡明な人たちの多くは女性だし、結局のところ、世界の半分は女性なのだから。

では、フェミニズムというものは女性が考えなければいけないものなのでしょうか。自分が特権的な立場にいる時や多数派にいる時(このケースでは自分が男であるということ)、そうでない立場に立たされてしまっている人たちについて話すのが難しいのは事実です。

ただ、自分の行動一つ一つがジェンダーに対するステレオタイプを助長したり、逆にそれを壊したりもできる。そう思うと、男性だってフェミニズムについて考える必要がある気がします。チチマンダさんの著書、「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」「イジェアウェレへ: フェミニスト宣言、15の提案」、どちらもするっと読めて面白いのでおすすめです。

今まで遠ざけていた事を反省しつつ、今後の自分の言動をしっかり考えて行きたいと思います。

国際女性デーの今日、全ての女性に心からの敬意を込めて。