言葉の芥場

思ってることを、思っているままに。日ごろ、堆積したことばを吐き出す場所。

人生観を肯定してくれた場所

インドとかカンボジアとかに行ったことがあるという話をするとよく聞かれるのが「人生観が変わった?」という質問です。直接の質問が無くても人生観が変わるような経験をした前提で話が進んでいったりします。すごく個人的なことを言えば、僕の人生観はそんな簡単に変わるような薄いものではありません。色んな考えを持ってるタイプだし、頑固で思想は強めです。

 

ただ、カンボジアがどんな所だったかと聞かれれば間違いなく、自分の人生観を肯定してくれた所と言えます。

カンボジアにkissoのインターン生として行った時は色々なことに迷ってる時期でした。自分がワクワクする、やりたいなと思えることはどうしても周りの人とは少しズレています。留学して、人類学というアカデミックに寄った分野を専攻していたのも珍しかったし、良い企業に勤めたいとかお金を稼ぎたいとか、ビジネスを自分で立ち上げたいみたいな野望もあまりありませんでした。こういう上昇志向を持つ人が周りには多く居たし、自分の進んできた道はそういう未来を当然描くだろうと思われるような道でした。周囲の影響とか、周りからの目に見えない期待みたいなものを勝手に感じて自分もそういう道を歩んだ方がいいのかと思っていました。

ただ、カンボジアで出会った人は自分の熱意を、自分のやりたいことに真剣に向けている人ばかりで、キラキラと輝いていました。

そういう人たちだったから、僕の考えてることとか、僕の持ってる興味関心を心から肯定してくれました。きっと僕が素直になっていればアメリカにいた時も周りの人はそうしてくれたのかもしれません。でも、僕が素直になれたのはカンボジアという場所だったわけで。

そんなカンボジアで、僕の人生観、僕という人間をきっと1番肯定してくれたのはkissoの代表かでさんとぐりさんでした。お2人はきっと誰に対してでも否定からは入らないとは思うんですけど、その事が当時の僕にはとても嬉しく、救われた気持ちになりました。

理想主義的で夢みがちな部分がある僕のやってみたいことを聞いては面白いと言ってくれたこと、僕の人生観を肯定してくれた場所がカンボジアだったのはおふたりあってのことだと思っています。

そんなこんなでめちゃくちゃお世話になったkissoが新たなプロジェクトを立ち上げて、クラウドファンディングをしています。凄く壮大で面白いプロジェクト、カンボジアエコビレッジを創る。ワクワクするプロジェクトに少しでも貢献できると共に、恩人であるおふたりや僕を救ってくれたカンボジアに微力ながら恩返しができる、そんな機会がこんな形でやってくるなんて本当に嬉しいです。

カンボジアには手助けをするための行ったはずなのに、気がついたら手を差し伸べてもらっていました。きっと今回のプロジェクトでも恩返しのつもりで参加させてもらいましたが、新たな恩をもらうことになる気がしてます。ただ、僕は思うんです。支援とは本来こういうものなのではないか、と。何かを与えようとすればそれ以上に何かを受け取ってしまう。だからまたそれを返そうとして、、、こうやって人と人の繋がりは大きく、深いものになって、気がつけば1人では考えられないことが実現する。

カンボジアは間違いなく、自分の中で特別な場所で、kissoは、かでさんとぐりさんは、カンボジアで出会った全ての人は、僕にとって特別です。だからこそ、僕はこのプロジェクトに参加しました。ここまで読んでくれた変わり者の貴方はきっと興味を持つはずですから、よければ下のリンクから飛んでみてください。kissoに、カンボジアに関わりを持って損することは無いと、僕が保証します。

https://camp-fire.jp/projects/view/323574

ベジタリアン

今年に入ってからしばらくしてベジタリアンになろうとフワッと決めて、卒業とか帰国とかを経て今は完全にベジタリアンとなりました。ヴィーガンに限りなく近いですが、魚介系の出汁は避けられなかったり、はちみつを食べたりはするので、厳密なヴィーガンではないです。時と場合によって柔軟にルールは決めていますが、目に見える動物性のものは基本的に食べない、もし食べるほかないときは魚介系にする、そのほかの部分ではなるべく避けるようにしてはいます。

アメリカにいた時から、金銭的な理由から肉をあまり買わずに生活していたので、肉を食べないことにあまり抵抗は無かったし、カリフォルニアにいる限りヴィーガンという食生活が身近にあったのでこの選択は自然と決められました。

人に会ってベジタリアンになったと言うと、大概何故かを聞かれるので、もうここで書いてしまおうと思います。僕がベジタリアンになったのは大きく分けて2つ、「環境保全」と「動物福祉」です。一つ一つ、順に説明します。

 

まず、僕の中で1番大きな理由、環境保全について。ベジタリアンと環境、どういう関係があるのかと思うかもしれません。しかし、肉食をするための畜産業は、様々な観点から環境に悪影響を与えています。

現在、地球の地表のうち人間が生活できるのは約71%だと推定されています。その内約半分の土地が農業や畜産業に使われている訳で、さらにこの土地の77%が畜産のために使われています。ざっくりとした言い方をすれば、人が食べ物を作るために使われる土地の7割強が肉、卵、乳製品の為に使われているということです。ただ、肉、卵、乳製品は世界のカロリー消費量の18%程度しか生み出しておらず、とても非効率的です。

この莫大な土地を確保するため、多くの森林が伐採され、家畜の放牧に利用されています。もしもここに植物が植えられていれば、植物は光合成を通じて炭素を地中に戻し、豊かな土壌を作ってくれます。ただ、放牧をする以上そのような事は望めないので、結果的に環境破壊につながっていきます。これについては広大な土地で一つの作物を育てる単一栽培の部分でも問題になっているので畜産だけが悪ではないですが、畜産業の与える影響は無視できません。

さらに、畜産業を成立させるためには、膨大な水の量と水の汚染が付いて回ります。1キログラムの牛肉を作るのに、約13000リットルの水が必要とされます。一方、同量のトウモロコシなら約500リットル、水耕栽培が必要な米でも約2500リットルしか必要としません。さらに、畜産動物の排せつ物が水の汚染を引き起こしているのは国連でも取り上げられるほど大きな問題になっています。さらに飼料に含まれる抗生物質やホルモン、肥料も生活用水に流れ込み、水質の悪化や淡水の環境破壊につながっています。

農場排気といわれる、農業、畜産業を通じたメタンガスの排気は車等の二酸化炭素排気に比べて23倍も温暖化への影響が大きいとも言われます。もちろん、作物を育てるうえでもこの農業排気は避けられないのですが、畜産業の方が与える影響は大きいです。農業排気の内、最も排気率が高いのは牛肉と乳製品の生産で、約20%を占めます。

こういったデータを大学の授業の中で一部見て、それから自分なりに調べたりした結果、肉や乳製品がどれだけの環境を犠牲にして作られているかを知りました。これが僕がベジタリアンになった一番大きな理由です。

これらのデータは様々ある環境への影響の一部を示したもので、ある程度信頼のおけるソースからとってきたつもりです。このブログの最後に参考にしたサイトを載せますのでよろしければぜひ。

ベジタリアンになろうかなと思った後、いろいろ調べて知った次の理由が動物福祉です。現在の畜産業が動物たちをどう扱っているのか。そこまで考えたことのなかった事ではあったんですが、ベジタリアンについて調べているうちにYouTubeにあったDominionというドキュメンタリーと発見しました。内容的には、現在の畜産業界において、家畜たち経済動物と呼ばれる生き物がどういった扱いを受けているのかに迫ったものです。もちろん、この動画で描かれていることがすべてだとは思いません。ただ、こういった現状があるのも事実で、それが現在の畜産において主流であるというのも間違いではないと思っています。植物も生きているじゃないかと言われる人もいるかと思います。もちろん、そうです。ただ動物と違って植物は感情を持ちません。そういった意味では動物に対してどう関わっていくのかはより大切なのではないかと思います。僕はベジタリアンになってからの方がむしろ、命をいただいているという自覚が増した気がします。それは多分、こういった部分を調べて知ったからだと思います。

 

以上の二つが僕がベジタリアンになった大きな理由です。僕は、すべての人がベジタリアンになるべきだ、とか肉食する奴は悪だ、とかは全く思いません。何を食べるのかは個人の自由だと思うし、僕のこの考え方はあくまでも僕個人の思想でしかありません。ポジショントーク的な部分もあるので、そうじゃないよと言われる部分もあるでしょう。ただ、ベジタリアンについてあまり知らない人や興味のなかった人が少しでも興味を持ったり、調べてみようと思ってくれたらうれしいと思い、ブログで詳しく書いてみました。

 

参考

https://www.google.com/amp/s/www.vogue.co.jp/lifestyle/article/2019-12-13-veganism-could-save-the-planet-cnihub%3famp https://www.vogue.co.jp/lifestyle/article/2019-12-13-veganism-could-save-the-planet-cnihub?amp

https://ourworldindata.org/global-land-for-agriculture

http://www.unesco.org/new/fileadmin/MULTIMEDIA/FIELD/Venice/pdf/special_events/bozza_scheda_DOW04_1.0.pdf

https://youtu.be/LQRAfJyEsko

 

 

 

卒業

この度、元々の予定よりも一学期前倒しでUCLAを卒業しました。冬休みに計画を確認したら、終われそうだったので、元々の計画を前倒ししました。正確に言えば冬学期の成績が反映されてから卒業ではあるんですけど、おそらく大丈夫だろうと思ってます。誤算があって卒業出来てなかったら笑って下さい。コロナの渦中に帰ることにはなったのは誤算ですが、とりあえず学生生活が終了しました。アメリカ生活を振り返って、思っていることを書き残しておこうと思います。長くてまとまりのない文章になりそうですが、どうかご勘弁を。

約四年前、日本の大学受験に失敗してアメリカに来ました。それから語学学校、コミカレ、そしてUCLAと勉強の場を変えながら四年間なんとか生き抜いてこれました。海外で勉強したいという夢と憧れから留学を目指し始めて、日本の大学にシフトチェンジして、結局は留学に落ち着いた訳ですが、その決断をした時に夢や憧れを叶えるためにという気持ちは正直4割くらいだったと思います。残り6割くらいは浪人してもう一度受験に挑むだけの勇気と強さが無かったという「逃げ」がモチベーションでした。逃げたからにはそうしてよかったと思えるように、その選択を「正しい選択」にするために駆け抜けたつもりです。日本の大学に行かなかった事で失ったものもあるし、こっちで失敗したことも多々あります。日本の大学に行った人たちの話を聞いて羨ましく思うこともあります。ただ、日本の大学に行けばよかったと思うかといわれればそれは絶対にないです。今の自分は、四年前に決断したからこそ得たものや巡り合えた人のおかげで成り立っている事を実感しているし、それを失うのはあまりに惜しい。さらに言えば、過去の決断という決して変わることのないものに対して是非を問うのが完全な時間の無駄だと最近になって気づきました。「反省はするけど後悔はしない」、今の自分の大きなテーマの一つです。この選択が正しかったのかどうかは自分が死ぬ直前に考える事なので、今はただ、この経験を次のステージに持ち込んで最大限に使っていこうと思います。

 

アメリカで生活をして、今後の人生を生きるうえで大切な教訓をいくつも得ました。

 

まず、何事も鵜呑みにしないこと。本に書いてあるからといって、ニュースとして見たからといって、自分が尊敬している人が言っていることだからといって、それを盲目的に信じるのは危ない。たくさんの論文や本を読んでいくうちに、そこに書いてある事には弱点や反証がつきものであるとわかりました。同じくらい権威のある学者が全く反対の主張をしていることもあります。それがどんなに偉い人が書いたものであっても、そこに含まれていない事実、見逃された反例が無いかを考えて、そのうえで自分の意見を持つ。自分の信じたい意見の反論を見てからその意見が信じるに値するのかを判断する。そういった論理的、批判的思考を持つ大切さはアメリカの大学でやたらといわれたcritical thinkingを通じて培われました。

簡単に人を分類してラベルを貼らないこと。日本という国を出てみて、日本とは180度違う多民族国家にマイノリティとして生活をし、自分とは違うバックグラウンドを持った人とたくさん関わる機会を得ました。国籍、宗教、ジェンダー、外見、肌の色、民族、言語、出身地、政治的指向、年齢、経済状況、家庭環境、、、。カテゴリーは無限にあります。そのカテゴリーそれぞれに間違ったステレオタイプや社会的なレッテルが結び付けられています。その人の持つたった一つの特徴を取り出して、その特徴に結びついた正しくもない情報をもとに、その人はこうだと言い切るのはどう考えても間違っています。人をカテゴライズして、そのカテゴリーごとレッテルを貼るのは簡単だし情報の処理スピードは上がるかもしれません。ただ、そのカテゴリーもレッテルも、それが社会的に常識とされていても、人間が作り出した何の根拠もないものだという事を肌で理解できました。結局人間は一人一人違うし変化していく生き物なので、まっさらな状態で人と向き合うことが大切だと教えられました。

どんなに頑張っても現状の実力以上はでないという事。必死に勉強して、何度も推敲したエッセイを出したところで、Aが取れないクラスは取れない。そこに至るまでの努力が足りなければ猛省が必要だけど、努力しても、実力が足りないのならばそれまでです。今までの多くの時間、僕は自分の実力以上を期待して、その差に打ちのめされていました。でも一度、高すぎる自分への期待を捨てて現実の実力を見つめ直せば、落ち込むことは減るし、やるべき事も見えてきます。この4年間、自分の実力不足を日々突きつけられてきました。周りには凄い人ばっかりで、いつもその差を見せつけられます。でもおかげで、自分のいる位置が冷静に見えてきました。実力以上のものが出ないなら、実力をつけるしかない。

環境を変えただけでは人は変わらないという事。留学を考えた大きな理由の一つに、自分を変えたいという思いがありました。留学したいと思った時からUCLA編入が決まるくらいまで、環境が変われば自分も変われるんだと信じていました。「アメリカに来たら」「UCLAにいれば」。そんな甘えた気持ちがどこかにありました。こういった環境の変化はもちろん一定の効果はあります。その環境で生き抜くために変わった部分もあります。それでも自分が一番変えたいと思っている事とか変わらねばならないと思う部分はなかなか変わってくれない。結局そこを変えたいと思ったら、内側から動くしかないわけで。環境とか、周りの人とかに頼って変化するのにはどうしても限界があります。環境の力程度で変わる部分は割と普段からフレキシブルに動いている部分だから、変化の実感がない。どうなりたいかを考え、能動的に動いていくことでしか人は変わらないのだと痛感しました。

今まで書いてきた学びを完璧には守れないだろうという事。上に書いたようなことを意識して生活できるかと言われれば、自信はありません。守らない方が楽なことも多いし、知らないうちに教訓を忘れていることもあります。事実、頭では分かっていてもそれが出来ないことが日々あります。だから、これからもきっとあるでしょう。完璧にこなせればそれがいい。ただそうもいかないから、自分の最善を尽くし、間違えそうになったら一回立ち止まり、それでも間違えたなら反省して改善する。そうやって自分の理想に近づいていくほかないのだと思っています。間違いを犯していて気付いてない場面を見かけたら叱ってください。自分は決して完璧な人間でも、出来る人間でもないので。

 

留学をするときに決めたUCLAかUCBに行って、そこを卒業するという目標は何とか叶えることが出来ました。ここから先の人生設計はほぼ白紙です。UCLAを出たにもかかわらず、まともに就活もしませんでした。良いところに就職して、バリバリ働いてお金稼ぐのも魅力的だし、そういうチャンスがあったとも思います。お金が無いと何も始まらないのも分かっているつもりです。それでも、今自分のやってみたい事に素直に向き合うことにしました。とりあえずはここから1年を目安に資金集めと計画を立てて、世界一周旅行をします。これだけが決まっているので僕の人生設計は「ほぼ」白紙なんです。ただ、この計画だってどうなるか分かりません。自分の力ではどうにもならない事もおきます。現状、計画をやや修正する必要が出てくるかもしれません。計画を立てて、実行していくのが好きな僕にとって、この予定外の流れはちょっと怖いです。ただ経験上、予定外の部分に行ったときに限って何か面白いことが起こったりもするので、なるべく考え過ぎずに。

 

この四年間、アメリカで出会った友達や先生はもちろん、世界中でどんな形でも僕と関わってくれた人すべてに感謝しています。わざわざこの文章を読んでくれているあなたはどこかで確実に僕を助けてくれています。本当にありがとうございました。その中でもやはり、決して安くない授業料なのに留学を認めてくれて、いつでもサポートをしてくれた両親には本当に感謝してもしきれません。ありがとうございます。一人では決して到達できない場所までこれたのは皆様のおかげです。

これからもたくさんの人の力を借りる事でしょう。自分一人では何もできない事はこの4年間で痛いほど学びました。代わりといってなんですが、白紙のページが必要になれば言ってください。実績も経験も何もないですが、可能性なら提供できると思っています。

次のステップでもおごることなく、自分らしく一生懸命に精進して参ります。

 

2020年3月29日 山本生人

フェミニズムについて

非常に反省しています。この反省を忘れないように反省文として記録しておきます。

フェミニズム」という言葉を聞くと、男には関係ないとか、男が関わる領域のモノではないというイメージが社会的に根付いている印象があります。さらに言えば、一部の過激なイメージがフェミニズムという言葉と結びついて、なかなかとっつきにくいものになっている気がします。事実、僕自身もフェミニズム関係のクラスは何となく取ってきませんでした。今はそれをすごく反省しています。知らずに遠ざけていた自分はどれだけ間違っていたのか。チママンダ・アディチエというナイジェリア出身の方の本とテッドトークに出会って、フェミニズムとは社会全体が考えていかなければならない物だと考えを改めました。

そもそもフェミニズムとは、すべてのジェンダーの人が政治的、社会的、経済的、そして個人的に平等さを持つべきだというものです。ここで注意しなければいけないのは、女性が長らく軽視されてきた歴史がありそこに問題がある事を踏まえているから「ヒューマニズム」ではなくて「フェミニズム」であるということです。

書いてみるとごく当たり前のような気がするけれど、現状の社会はこれが達成できない「常識」や「習慣」があふれています。チママンダさんの著書の中で、とても印象に残った例があります。「夫婦やパートナー間において料理は女性のやる事である。」アメリカに限ればこうしたイメージは少しずつ無くなってはいる感じはありますが、彼女の出身であるナイジェリアではとても強く残っているそうです。これに関しては日本も同じではないでしょうか。もしも女性が生まれつき料理が上手いDNAを持っていればこの分担は理にかなっているといえるでしょう。ただ、そんなことはありません。もっと言えば、世界的に権威のあるシェフの多くは男性だったりします。女性=家事という考え方は女性の社会進出が進む前に生まれたもので、現代社会において成立するものではないでしょう。

育児に関しても似たようなことが言えます。僕はそもそもイクメンという言葉が嫌いなのですが、それは「イクメン」という言葉の裏には育児は母親の役割で、それを手伝う父親は偉いという固定観念があるからです。もちろん、こんなことに気付いてる人は多くいるし、こう言った意見を聞く事もあります。ただ、例えば日本のテレビとかメディアを見たときに、なんの気になしにこういうフレーズを使う場面や、父親の育児参加ばかりが讃えられる場面が多くあります。最初のうちはそうあっても仕方ないとは思いますが、これが両親の家事と育児への参加が当たり前になるための議論はもっとなされる部分だと思っています。

アメリカの社会が日本より良いとは思わないし、アメリカ社会が完璧とは程遠いですが、少なくともアメリカでは、男性の家事参加を特別視することをやめようという議論は良く行われます。今年のアカデミー賞の短編アニメーション賞を受賞した作品は父親が娘の髪をセットするという内容のものですが、このアニメを作った監督(元NFLプレーヤーでこれが監督デビュー作)は、この映画に描かれているものを普通なものにしたい、とあるインタビューで言っていました。

生きていく上で周りからの影響は多大です。子どもは自分の周りの社会を観察し、真似をしながら大人になります。少しずつでも社会を変えていかないといつまで経っても何も変わりません。単純に国会の女性比率とかを見ても、日本がジェンダー格差問題に関して後進的であることは間違いありません。僕はこれから育つ女の子が、ある一定の社会的な常識や風潮、女性へのステレオタイプを守るために何かを犠牲にするのは納得がいきません。僕の周りの最も聡明な人たちの多くは女性だし、結局のところ、世界の半分は女性なのだから。

では、フェミニズムというものは女性が考えなければいけないものなのでしょうか。自分が特権的な立場にいる時や多数派にいる時(このケースでは自分が男であるということ)、そうでない立場に立たされてしまっている人たちについて話すのが難しいのは事実です。

ただ、自分の行動一つ一つがジェンダーに対するステレオタイプを助長したり、逆にそれを壊したりもできる。そう思うと、男性だってフェミニズムについて考える必要がある気がします。チチマンダさんの著書、「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」「イジェアウェレへ: フェミニスト宣言、15の提案」、どちらもするっと読めて面白いのでおすすめです。

今まで遠ざけていた事を反省しつつ、今後の自分の言動をしっかり考えて行きたいと思います。

国際女性デーの今日、全ての女性に心からの敬意を込めて。

 

 

ヒトが向かう先

ホモサピエンスは神のような力を手に入れて別の何か―ホモデウス―になるのかもしれない。あるいは、、、

サピエンス全史の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書、ホモデウスを読みました。我々人類、ホモサピエンスがこれからどこに向かうのか、未来を考察した内容はひたすら衝撃的です。

この本に書かれていることは歴史学社会学、心理学、生物学、芸術、さらに哲学など様々なジャンルをまとめ、一つの大きな流れにしたものといえます。サピエンス全史を読んだ時にも思いましたが、ハラリさんは多分野の膨大な研究やデータをうまく混ぜつつ、説得力のある一つの物語を紡ぐ技術にとても長けている気がします。未来を予測するうえで一番難しいことはおそらく、現在あるシステムや常識が続くものだと仮定したり、それらが当たり前になりすぎて疑う事すらしないところにあると思います。そうすると見える未来がとても狭いものになってしまう。この本は狭すぎる未来の見方を少し広げてくれるようなものだと感じました。

数日前に読んだFactfulnessと合わせて考えるととても面白いです。Factfulnessはおそらく今後10数年程度の指標となりえるのに対し、この本はどちらかといえば今後50年とか100年規模の世界を見据えたものであるように思えます。この本の内容がすぐに実現するのをイメージするのは難しすぎるし、著者もこういった変化が一朝一夕で起こることは無いと書いています。それでも、100年前やそれよりも前の中世の世界は今の世界と大きく乖離しています。だからこういった変化は徐々に起きるものだし、変化の真っ只中にいる人は全体像がつかみにくいのかもしれません。

時代の変わり目の世代だとよく言われます。認識革命、農業革命、産業革命に続く新たな革命が目の前に迫っていて、僕ら世代は時代のターニングポイントに生きているのかもしれません。ただこの変わり目は今までの歴史上で類を見ない変わり方の可能性が高い。ホモサピエンスがホモデウスへと変貌を遂げる、その境目にいるのかもしれない。今まで常識だった人類至上主義が崩れる世の中になり、ホモサピエンスが享受していた特権がもはや通用しなくなることも十分にあり得ます。この本を読み進めるにつれてどんどん未来が怖くなっていく気もするけれど、この本に書かれていることが正解だとは限らないし、今感じている恐怖のベースになっている考え方がもはや時代遅れとなる日が来るのかもしれない。そんなことを思いながらも、そんな未来が来る前に取り返しのつかない問題が起こらないように、まずは目先の10数年を見据えて生きようと思いました。

Possibilistという考え方

世界情勢や社会問題について深く勉強すればするほど、世界の現状に絶望したりイライラしたりします。なんとかしたいと思っても自分の力ではどうしようもないことが多すぎて嫌になることが多いです。自分のやれることをやろうと日々努力をしていますが、いかんせん問題が大きすぎて、世界規模での前進が見えなさ過ぎてストレスを感じたり、何となく未来が怖いもののような気がする生活を送っていました。この考え方を大きく変える一冊と出会いました。この本が衝撃的過ぎたので、今回ブログで書くことにしました。

その一冊とは、2018年に出版されたハンス・ロスリングのFactfulnessという本で、日本語版も出ています。冬休みに入って、自分の好きなものが読める時間が増えたのでこの本を読むことにしました。国連や世界銀行などが出しているシンプルな統計やデータをもとに、世界の現状を正しく描き、多くの人が持つ勘違いを正すことがこの本のテーマです。著者は統計学者などではなく、世界各国の貧しい地域での医療経験のある医者で、テッドトークなどでも頻繁にスピーチをするような人です。おかげで、数字の羅列や統計の難しい話だけでなく、実体験を交えた読みやすい文章でつづられています。結果、書かれていることは大きな問題なのにするすると読めてしまいます。

この本は、多くの人が持つ10の本能的な勘違いを指摘して、fact-based world view,つまり事実に基づいた世界の見方を進めています。書いてあることすべてとても面白かったし勉強になることばかりでしたが、その中でも特に印象に残ったのがpossibilistという考え方です。彼はあまりにドラマチックな世界の見方を否定しています。例えば、今すぐに何か大胆なことをしなければ人口が増えすぎて大変なことになる、とか世界はだんだん悪い場所になっていくんだ、とか。その代わりに彼は過去を振り返り、実際はどうなっているのかを冷静に分析しています。例えば、世界の貧困は今までにないほどの勢いで減っていたり、世界の人口増加は以前に比べて緩やかになり始めていることなど。読む以前から、彼がこういった議論をしていることは知っていました。僕個人は、こういったことを見るのはいいけれど、これらを強調することで、今直面している問題から目を背けているように思えました。彼が、問題は解決するから大丈夫だと言っているのかと思っていました。しかし、彼はそれについて本の中ではっきりと否定しています。彼は自らをpositivist, 楽観主義者ではなくpossibilist, 可能性主義者だと言います。この本の中で一番好きな一文がpossibilistが何なのかを美しく描写しています。

It [possibilist] means someone who neither hopes without reasons, not fear without reasons, someone who constantly resists the overdramatic worldview.

 つまりpossibilistとは、理由なしに希望を抱いたり恐怖を抱いたりせず、ただただあまりに激情的な世界の見方を否定する人のことです。

さらに彼は、「悪い現状」と「改善している現状」が両立することも主張しています。確かに世界中には貧困に苦しむ人がたくさんいて、現状が良いとは言えない。それでも貧困率は歴史上もっとも低くなっている。貧困にあえぐ人が減ってきたというポジティブな現状が確かにあって、それを認めることは決して今の悪い現状から目を背ける事ではない。さらに言えば、この成果はむしろ今までの努力の結晶であり、今後の努力の糧になるものだと彼は書いています。よく考えればわかりそうなことですが、これを読んだ時、この考え方が出来ていなかったことに気づいて衝撃を受けました。ブログの始めに書いた自分の考えは悪い現状のみを見ているし、彼のポジティブなデータを目を背けさせるだけだと思っていた僕の考えは二つの状況の両立を否定しています。

 この本に書かれていることが、自分がしょっちゅう感じている無力感とか絶望感を和らげてくれた気がして、世界をポジティブに見られるようになった気がして、読後、とてもすがすがしい気持ちになりました。

もちろん、世界には解決しなければならない問題がたくさんあります。この本の著者も世界のこれからを心配しています。それでも、正しい世界の姿を理解せずにどれだけのことができるでしょうか。絶望的な内容ばかりを見てどうやってモチベーションをキープできるでしょうか。改善されている実例を見れば、ちっぽけな僕でも何かできるのではないかとさえ思えます。

ドラマチックな世界の見方を反省しつつ、事実しっかり見つめてpossibilistであろうと思います。

「天才」で済ませたくない

「天才」と言う言葉を誰かを褒める時に使うのがどうしても苦手です。そのフレーズを使った時点で、そこにたどり着けない自分に言い訳を作っているうえに、その人が裏でしてきただろう膨大な努力に対して敬意を払えない気がしてしまいます。

何となくそんなことをずっと思っていましたが、その考えをより深める本に出会いました。GRIT: The Power of Passion and Perseverance, 日本だと「やり抜く力」という副題で翻訳されている本です。心理学者である著者は、成功する人が必ず持っているやり抜く力、GRITについての研究とそれの育て方を専門にしています。この本のメインテーマは、成功はその人の才能ではなく、やり抜く力、すなわちGRITにかかわるというものです。GRITは情熱と粘り強さの指標で、この二つの要素が夢を叶えたり成功し足りするのにとても大切な役割を持ちます。もちろん、誰しもがボルトのように走れるわけでも、アインシュタインのようになれるわけでもありません。人それぞれ向き不向きはあるし、限界はあります。ただ、成功をつかむために必要なのは突出した才能ではなく、継続的な情熱をもってあきらめずに粘り強く努力することだと、様々なデータや実例をもとに著者は主張しています。

僕自身がずっと思っていたことが綺麗に、論理的に文章化されていてとても感動しました。僕はあまり天才というものを信じていません。もちろん世間的に天才といわれる人達に追いつけるとは到底思っていませんが(特にスポーツや音楽のジャンルでは)、それでも彼らの才能を理由にしてしまうのは嫌です。「彼/彼女は天才だから」としてしまえば、気持ちは楽です。でも、きっと天才といわれる人はみな、自分とは比較にならないだけの努力を陰でしていると思っているし、それが出来なかった自分から目を背けているように思えてしまいます。

さらに、「天才だから」という一言はその人がしてきた膨大な努力に敬意を払えていない気がします。成功を先天的なものを理由にして、その人のかけたエネルギーや時間を無視するのはどうも納得がいかない。だから人を「天才」だと呼びたくはないです。

本の中で、GRITは伸ばすことはできるし、人の能力は、たとえそれがどんなものでも成長するといわれています。このGRITを伸ばすための学校教育や子育てを著者は研究していて、それについても書かれています。自分のGRITを高められるように、そして自分の周りの人のGRITを高める手助けができるようにしたい。

自分の考え方を深めるとともに、大きなモチベーションをくれた、とてもおもしろい一冊でした。